消費 [読書した履歴]
しばらく、つん読していたが読み終えた。本書のおわりに「いままでにぼくが書いてきたものに比べて、ずいぶんと啓蒙臭の強いものになったような気がします。そのことは、あんまりいいことじゃないと思っています。」と書いてあった。
私はとても面白かった。糸井氏はすごい仕事をしてきたわりに、その裏側をみせないので、なにをどう考えているのかわからない人という感じだった。しかし、この本には糸井氏の志向性が少し垣間見えた。
このタイトルでもある「インターネット的」。これには深~い意味があるので私は説明できない。しかし、インターネットは「単に使うもの、道具である。」(P188)で、インターネット的というのは「使い方しだいで力になるし、いい使い方を考えるのは簡単なものじゃないですよね。使い方が、ITのこれからを決定していくのだということは、つまり、使う(消費する)ことが大事ですよという意味になります。」(P189)とおっしゃっています。
つまり、“消費こそ生産なんだ”と。使い方をもっともっと考えようよと。これまで、社会も経済も使うことよりつくることのほうを大事にしながら発達してきた。すなわち、「使う」「消費する」「楽しむ」ことが軽んじられてきた。人間は本来もっと遊んだり消費したりすることに熱心な生き物だったのではないか。蓄積や生産に狂奔しすぎて、人間のエネルギーが疲弊して、消費や遊びができなくなっちゃった。
糸井氏はこれまであえて避けていた「幸せって何だっけぇ、何だっけぇ?」を考えた。そしたら、「消費のクリエイティブ」につながった、ようです。たとえば「仕事」ではなく、「遊び」と「休み」を考える。そこにクリエイティブを発揮する。それが今、インターネット的に可能だと見通しているようです。
私はとても面白かった。糸井氏はすごい仕事をしてきたわりに、その裏側をみせないので、なにをどう考えているのかわからない人という感じだった。しかし、この本には糸井氏の志向性が少し垣間見えた。
このタイトルでもある「インターネット的」。これには深~い意味があるので私は説明できない。しかし、インターネットは「単に使うもの、道具である。」(P188)で、インターネット的というのは「使い方しだいで力になるし、いい使い方を考えるのは簡単なものじゃないですよね。使い方が、ITのこれからを決定していくのだということは、つまり、使う(消費する)ことが大事ですよという意味になります。」(P189)とおっしゃっています。
つまり、“消費こそ生産なんだ”と。使い方をもっともっと考えようよと。これまで、社会も経済も使うことよりつくることのほうを大事にしながら発達してきた。すなわち、「使う」「消費する」「楽しむ」ことが軽んじられてきた。人間は本来もっと遊んだり消費したりすることに熱心な生き物だったのではないか。蓄積や生産に狂奔しすぎて、人間のエネルギーが疲弊して、消費や遊びができなくなっちゃった。
糸井氏はこれまであえて避けていた「幸せって何だっけぇ、何だっけぇ?」を考えた。そしたら、「消費のクリエイティブ」につながった、ようです。たとえば「仕事」ではなく、「遊び」と「休み」を考える。そこにクリエイティブを発揮する。それが今、インターネット的に可能だと見通しているようです。
この本、私も読んだことがあります。良い印象が残ってます。しかし、内容については覚えていません。
当時、NPOの本を書いていて、そのタイトルをどうしようかと考えているとき、この本からヒント得て、『NPO的』って良いのではないかと・・・。
以下、『元気なNPOの育て方』から引用
<引用始め>
たとえば、日本では数年前から「スローフード」なる言葉が流行している。もともとこれは、効率性や生産性を重視して同じ味を大量に売るファーストフードに対して生まれた言葉で、「食べる」という行為に十分な時間をかけようという思いがこめられている。ただし、毎日の食生活を見直そうというだけの単純な話ではない。伝統的な食材や料理を守ること、質の高い素材を提供する小さな生産者を守ること、消費者に対して味覚の教育を行うことーーなどを通して心豊かな生活、ゆとりのある暮らしを取り戻そうという社会運動である。スローフードから派生した、スローライフ、スロータウン、スロービジネス、スローキャリアといった言葉も市民権を得ている。
こんな風に考えることは出来ないだろうか。「ファースト=速いこと」は企業的であり、「スロー=遅いこと」はNPO的である。同様に、「速いことは良いことである」という価値観は企業的であり、「遅いことは良いことである」という価値観はNPO的である。
私たちは当たり前のように「速いことは良いことである」と考えている。しかし、「速いことは良いことである」というのはれっきとした価値判断であり、自明の原理ではない。速いことはいつでも良いこととは限らないのだ。「速いことは良いことである」かどうかは時と場合による。
貧しい社会においては、速さを追求することは重要な価値を持つ。なぜなら物が欠乏している貧しい社会では、単位時間当たりに生産される物やサービスを増やす必要があるからだ。よって速さを追求することは人々の幸福につながる。しかし、物が溢れかえる豊かな社会においては事情が異なる。なおも、速さという価値観に囚われると、逆に幸福度が下がるという事態が起きてしまう。日本の社会がまさにそういう状況にある。
私はこれまで「海外で暮らす日本人」をテーマに多くの海外取材をこなしてきた。その中で感じたのは、日本以外のほとんどの国は経済至上主義に対抗する〝何か〟を持っていることだ。〝何か〟とは、宗教的価値観、労働組合の力、自然保護思想、歴史や伝統を重んじる姿勢、家庭や趣味を第一とする考え、怠け者の習性ーーなど、国によって様々である。これらの価値観や思想や習性は、経済至上主義の暴走に一定の歯止めをかける〝ブレーキ〟の役割を果たしている。ブレーキが働けば当然のことながら経済成長のスピードは遅くなる。結果的にGDPは日本よりも小さくなる。効率性や便利さという面でいえば、日本よりも明らかに劣っている。しかし、そこで暮らす人々は程々の生活に満足して幸せそうだ。要するに彼らは多様な価値観を持っており、その価値観故、日本人よりもバランスの取れた生活を送っているのだ。
日本において、経済至上主義に対抗できる価値観を何に求めるか? 多くの国のように宗教にその役割を期待することは不可能だ。NPOならば経済至上主義を相対化するような価値観を提示していけるのではないか。私は期待をこめてそう思う。
<引用終わり>
NPO的の対概念は企業的である。また、NPOー企業ー行政という三角形をかんがえてみてもいい。
そこで問いである。
インターネット的の対概念は何か?
by 名古屋の虎 (2008-10-01 11:39)
「インターネット的の対概念は何か?」ですね。ちょ、ちょっと考えさせてくださいませ…。
ちなみに、対概念の“対”は、反対ということですか。とすると、インターネット的の反対は何か?ということですね。
反対とは、“両立不可能でしかもその一部”(野矢茂樹によれば)ととらえれば、「来るはずだ」の反対は「来るはずがない」。「来るはずがない」というのは、「来るかもしれないし来ないかもしれない」の一部。
したがって、「インターネット的ではないかもしれないしそうかもしれない」の一部の「インターネット的であるはずがない」という意味ですね。
それはなんやろぉ。
「そりぁ、インターネット的ちゃうやろ!」というものは何か。教科書的…、マニュアル的…、ロボット的…、マクロ的…。う~む。
糸井氏は、「インターネットは単なる道具である」といっており、その使い方が難しい、でもインターネット的が最もいい方法じゃない?といっている。
つまり、インターネット的というのはひとつの“方法”。“方法”の反対は“対象”。対象は方法の目的。方法は対象の出発点。方法によって通達するものが対象(戸坂潤氏によれば…)、と考えたら…。
インターネット的の対象は何か。目的は何か。インターネット的は、何の出発点か。インターネット的によって通達するものは何か…。
なんやろぉ…。
やっぱ、消費的?。浪費でもなく、生産でもなくして、創造的な消費という意味で。それだと面白くない。少し左よりにして、インターネット的の対概念はズバリ“運動的”というのでいかがでしょうか?
by myjob (2008-10-02 09:50)