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正体 [読書した履歴]

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たちぼくはニート支援歴3年。本書は出版されて約2年。3年経験しても理解できなかったいわゆる“ニート”の正体が2年前にほぼ解明されていた。すなわち、この本に書かれていた! 衝撃的! それほど、本書は凄い。

ぼくはぼくなりに、いわゆる“ニート”を4つの類型にわけて理解していた。
①神経質または神経症傾向
②軽症うつまたはうつ病傾向
③発達障害またはその疑い
④歪んだ感情

とはいうものの、「④歪んだ感情」はこれまで確信がもてず謎だった。それにもかかわらず、実はここにこそ、“ニート中のニート”あるいは“本物のニート”が存在していると思っていた。ところが、本書はすでにその正体をほぼ突き止めてしまっており、それを読んだぼくはぼくの謎を解くことができた。

つまり、“ニート中のニート”あるいは“本物のニート”は、「お金による等価交換だけを身につけてしまった主体」であり、「消費のみのアイディンティ(自己同一性)の主体」であり、「交換の全行程を通じて決して変化しない消費主体」という存在である。簡単に言えば、消費行動のみしか身についていない人間である。

そういう人間にとっては、「働くということ」自体はわからない。特に、「働くということ」は消費と違って時間的なズレがある。消費は基本的に時間的なズレはない。つまり、消費という交換行為は一瞬。一方、「働くということ」は一瞬ではない。ある一定の時間を要する。普通は、まず最初に自分の時間を提供する。現実には稀に前払いされることもあるが、それでも一定の時間を要することに違いはない。つまり、“ニート中のニート”あるいは“本物のニート”は無時間性の交換しか身についていない。

本書はこの他にも、いわゆる“ニート”の生成原因も説明している。また、学力低下などにも言及している。とにかく、ぼくにとっては目が点になるというより瞼が広がるような本だ。ただし、これをそのまま鵜呑みにするつもりはない。恐らく、厳密に考えれば批判の余地もたぶんあるだろう。著者もそれは重々承知のことだろう。だが、すくなくとも正体がわかれば対策もわかる。これまでと違った手立てを考える手がかりは、十分すぎるくらい与えてくれている[猫]
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コメント 2

名古屋の虎

こんにちわ

1)内田樹氏の言葉

、“ニート中のニート”あるいは“本物のニート”は、「お金による等価交換だけを身につけてしまった主体」であり、「消費のみのアイディンティ(自己同一性)の主体」であり、「交換の全行程を通じて決して変化しない消費主体」という存在である。簡単に言えば、消費行動のみしか身についていない人間である。

2)福田恆存氏の言葉

人間は生産を通じてでなければ附合へない。消費は人を孤獨に陥れる。

3)速水健朗の言葉

・・・現代の自分探しの根っこには、消費社会への疑問が存在する

から何か言えそうな気がする。

 1)と2)は仲間、3)は逆の少し違うことを言っている。

消費社会に疑問を持つことはよいことである。しかし、生産者のポジションを放棄して消費者のみとして生きるのはよくない。

どうですか?
by 名古屋の虎 (2008-11-18 10:24) 

myjob

名古屋の虎さん、こんにちは。コメントありがとうございます。

○まず、結論
「消費社会に疑問を持つことはよいことである。しかし、生産者のポジションを放棄して消費者のみとして生きるのはよくない。」というのはよくわかります。

しかし、<生産を通じて、人とつきあう>の部分がよくわからないのが、今の時代なのかなと感じました。

以下、いわゆる“ニート”に関連づけて考えてみました…。


○問題の所在=二つの錯誤
①1)と3)からは、社会のとらえ方の間違い。
②2)は、生物としての問題。


○消費者とは
糸井重里氏は「消費者という人はいません、ほんとは。何かモノを買うとき、サービスを受けるときには、消費者という役割をしていますが、それはある特定の場面や時間の中でのポジションです。(中略)みんな、ある立場というのが点滅しているようなものなのです。」と『インターネット的』(PHP新書 P133~)で書いています。

たとえば、私も一日のうちにいろんなランプが点灯しています。
●仕事している
◆子どもの相手をしている
▲寝ころんで本を読んでいる
■夜、発泡酒を呑んでいる
◎寝てる。

つまり、●のランプが、次の瞬間◆になったり、■になったり…している。

ところが、いわゆる“ニート”の場合は、<生産“用”ランプ>だけがなぜか点灯しない。


○新しい人間モデルの誕生?
これはアダム・スミスが考え出した人間のモデル“ホモ・エコノミクス”と似ているような気がしました。

“ホモ・エコノミクス”は、市場とそこでおこなわれる競争の重要性が問われる社会において「欲の充足を利己的に追求する人間」、あるいは「完全に合理的で冷徹無比な存在」。

一方、いわゆる“ニート”も、同じように利己的で合理性をもち、市場競争社会に生きている。

しかし、“ホモ・エコノミクス”は労働が富の源泉であるという考え方をもつ。一方、いわゆる“ニート”は労働は富の源泉ではない。労働投入量と生活の豊かさは反比例するという考え方をもつ。だから、労働しない。


○原因は社会の変化
問題の所在は、労働価値の変化。労働の価値が貨幣に対して相対的に低くなったことと。つまり、労働の量や質(強度)が交換価値より低く取引されることと、そこで得た交換価値に対してモノやサービスの使用価値が低くあるいはゼロで見積もることが許容できる社会になったこと。

少なくとも、“ニート中のニート”にはそう見えている。


○それと、人との<本当>のつきあい
また、もしかしたら、2)の福田恆存氏の「人は生産を通してでなければつきあえない。消費は人を孤独に陥れる。」は、今では言えないのではないか。

実は、いわゆる“ニート”は、ネットゲーム(+チャット)などに一日の多くの時間を費やしている(ことが多い)。

つまり、インターネットをしていれば、生産をしなくても、人とつきあうことができるし、孤独に陥ることもない。たとえば、ネットゲームで自分のキャラクターの獲得点数が高ければ、相互承認のような関係もできる。

少なくとも、“本物のニート”には生産を介する人とのつきあいが理解できない。
by myjob (2008-11-19 18:35) 

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