学習とは知識の受容ではない [キャリア教育]
近所のある小学生の会話から…
「○○君、2学期いくつAあった?」
「え、おれ10個(24項目中)。あとB」
「ふ~ん、おれはAが7個であとB」
「△△君は国語も算数も全部Aらしいよ」
無邪気な会話のなかに、自分の相対的な評価を自然と気にする子どもの姿を垣間見る。
遠いフィンランドでは、どんな日常会話が行われているのだろう? ちと、想像してみた。
「○○君、2学期何をしてたの?」
「え、おれ? かけ算できるようにしてた」
「ふーん、おれは××ばかり読んだよ。ところで、何のためにかけ算をやってたの」
フィンランドの子どもたちは、自分の将来を考えて、仲間と協同(グループ学習など)し、目標をもって学んでいるらしい。また、ひとりひとりの関心・意欲に応じ、教育しているらしい。
他方、日本の場合はどうか。整理された知識という外化されたものがあり、その順序、つまり伝達される道筋があり、それを標準とし、全国一律の教育している。そして、それは子どもの状態に関係なく行われる。
しかし、その知識は内化されないばかりか、唯一正しい知識が存在するという錯覚に陥る。また、応用や創造する力の形成にはいたらない。教育の目的は、一生通用する学習力を育てることではなかったのか?
『競争やめたら学力世界一 フィンランド教育の成功』(福田誠治著)を読んでつくづくそう思ふ。
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