占有 [就労支援]
私は“ニート”“ひきこもり”といういい方が好きじゃなくて、「働きたくても働けないひと」といってきた。
しかし、よくみていると現実は、そのいい方のなかにも2類型あるように思うようになった。
①なんでもいいから、とにかく働きたい
②条件が揃っていれば、働きたい
支援側としては、①の方が支援しやすく、②は難しい。なぜならば、②のなかには、働く上での社会のルール(職業観)を間違って身につけているひとが少なくないからである。
すなわち、社会とは本来「利益をみんなで分かち合い、リスクはみんなで補い合う」がルールであるが、それを「自分の利益の追求を最優先し、自分の努力の成果は自分が独占してよい」というルールを固持して、譲らないひとが②にいる。
もっとも、「自分の利益の追求が最優先され、自分の努力の成果は自分が独占してよい」というルールが実在しないわけではない。ただそれが適用されるのは、例外的な状況だけに許される特例だ。例えば、障害や病気だったり、なんらかの事情など…がそうである。
それゆえ、その特例が認められなければ、自分の利益を最優先してはならないし、自分の努力を独占してもいけないと考えます。
しかし、よくみていると現実は、そのいい方のなかにも2類型あるように思うようになった。
①なんでもいいから、とにかく働きたい
②条件が揃っていれば、働きたい
支援側としては、①の方が支援しやすく、②は難しい。なぜならば、②のなかには、働く上での社会のルール(職業観)を間違って身につけているひとが少なくないからである。
すなわち、社会とは本来「利益をみんなで分かち合い、リスクはみんなで補い合う」がルールであるが、それを「自分の利益の追求を最優先し、自分の努力の成果は自分が独占してよい」というルールを固持して、譲らないひとが②にいる。
もっとも、「自分の利益の追求が最優先され、自分の努力の成果は自分が独占してよい」というルールが実在しないわけではない。ただそれが適用されるのは、例外的な状況だけに許される特例だ。例えば、障害や病気だったり、なんらかの事情など…がそうである。
それゆえ、その特例が認められなければ、自分の利益を最優先してはならないし、自分の努力を独占してもいけないと考えます。
おっす!
働きたいのに働くことができない
という言葉をじっくりと考えてみると、いろんなパターンがあることがわかる。
まず、働きたいのに、についてである。
自分のやれることなら、人殺し以外は何でもやります、なのでとにかく働きたいというAさん。
体がきつくなくて、給料が多くて、休みがたくさんもらえて、自分の興味あることで、自分の能力を引き出してくれて、優しい上司と仲間がいて、家から近い会社が見つかれば働きたちいというBさん。
もちろん極端な例だが、同じ「働きたい」でも大きな違いがある。
次に働くことができない、についてである。
Aさんが言う場合の「働くことができない」とBさんが言う場合の「働くことができない」は意味が違うように思う。
Bさんの場合は、そういう会社が世の中に存在していないから、また見つけることができないから、働くことができないんだ、ということだ。つまり、責任は自分ではなく社会にある。
Aさんの場合、何でもやると言っているのだから働く場所を見つけることはむずかしくない。このときに働くことができないは何だろうか? 体力がないとか、パソコンが使えないとか・・・・。こういうのは克服できそうだ。
ということで時間切れである。
組長、ここ ↓ の意味がよく分かりません。
支援側としては、①の方が支援しやすく、②は難しい。なぜならば、②のなかには、働く上での社会のルール(職業観)を間違って身につけているひとが少なくないからである。
すなわち、社会とは本来「利益をみんなで分かち合い、リスクはみんなで補い合う」がルールであるが、それを「自分の利益の追求を最優先し、自分の努力の成果は自分が独占してよい」というルールを固持して、譲らないひとが②にいる。
もっとも、「自分の利益の追求が最優先され、自分の努力の成果は自分が独占してよい」というルールが実在しないわけではない。ただそれが適用されるのは、例外的な状況だけに許される特例だ。例えば、障害や病気だったり、なんらかの事情など…がそうである。
by 名古屋の虎 (2008-12-12 12:42)
おっす! ありがとうございます。
おっす! よろしくお願いします。
“ニート”“ひきこもり”は「孤立ベース」。就職は「集団ベース」。
働くということは、「孤立ベース」から「集団ベース」への移行である。
「孤立ベース」のルールと「集団ベース」のルールは違う。
「孤立ベース」は、、「自分の利益の追求が最優先され、自分の努力の成果は自分が独占してよい」。しかし、「集団ベース」は、「利益をみんなで分かち合い、リスクはみんなで補い合う」のがルール。
喩えると、「個人競技」と「集団競技」。「ゴルフ」と「野球」。
他にまた、ある営業マンの売上げが1億円だとする。そして、人件費相当分が1千万円とする。ところが、営業マンは1千万円もらっていいわけではない。それを5人で分けなければいけない。なぜなら、そこには営業マンの企画、製作、管理、経営に携わるひとがいるから。したがって、営業の給与は1千万円ではない。その5分の一の2百万円である。それが、いわつる「集団ベース」のルール。
それが、フェア(な)プレイ。
それを飲み込むことができるか、否か。
飲み込むことができないひとを“働く上での社会のルール(職業観)を間違って身につけているひと”という。
飲み込むことができないひとのうち、社会的に容認されるひとは、法律の下、支援や保護を受けられる。
しかし、飲み込むことができないひとのうち、社会的に容認されないひとは、働くしかない。が、働けない。働く可能性としては、自営の仕事を探す選択肢しか残らない。しかも、その可能性はかなり低い。
…ということです。いかがでございましょう、組長。
by myjob (2008-12-12 22:42)