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公理 [読書した履歴]

『国家の品格』(藤原正彦著 新潮新書 2005年11月)を読みました。主意は、次の一文です。
日本は正々堂々と、経済成長を犠牲にしてでも品格ある国家を目指すべきです。(P178)
国家の品格 (新潮新書)それはともかく、この著書の目次をみてみます。
第一章 近代的合理精神の限界
第二章 「論理」だけでは世界が破綻する
第三章 自由、平等、民主主義を疑う
第四章 「情緒」と「形」の国、日本
第五章 「武士道精神」の復活を
第六章 なぜ「情緒と形」が大事なのか
第七章 国家の品格
このとおり「近代的合理精神」→「武士道精神」→「国家の品格」の流れです。

私は主意でもなく、流れでなくして、その根拠の「論理」偏向への批判が秀逸であると思いました。
論理的には説明出来ないけれども、非常に重要なことというのが山ほどあります。別の言葉で言うと、「論理は世界をカバーしない」ということです。数学のように論理だけで構築されているような分野でも、論理ですべてに決着をつけることは出来ないのです。この事実は数学的にも説明されています。1931年にオーストリアの数学者クールト・ゲーデルが「不完全性定理」というものを証明しました。(P44-45)
つまり、ゲーデルというひとが“論理だけに頼っていては永久に判断出来ない”ことがあるって言った、ってことです。また、著者は…
論理というのは、数学で言うと大きさと方向だけで決まるベクトルのようなものですから、座標軸がないと、どこにいるのかわからなくなります。人間にとっての座標軸とは、行動基準、判断基準となる精神の形、すなわち道徳です。(P116)
後半はともかく、前半部分で「論理」を「ベクトル」に喩え、別で「座標軸」を「出発点」と言い換えます。
数学の世界では、出発点はいつも、何らかの公理系です。公理というのは万国共通です。東西で寸分の違いもない。世界中のみなが同じ出発点を使っています。したがって、何の心配もなく、論理的に突き進むことが出来る。しかし現実の世の中に、公理系というものは実在しません。各人がみな違う公理系を持っているようなものです。受けた教育、家族関係、住んだ地域、育った環境、年齢、性別、何から何まで違うので、公理系は十人十色です。数学のようにはいかない。(P54)
では、その「出発点」はどうやって決められるのか?
万人の認める公理から出発する数字とは違い、俗世に万人の認める公理はありませんから、論理を展開するには自らの出発点を定めることが必要で、これを選ぶ能力はその人の情緒や形にかかわっています。(P149)
「情緒」と「形」が重要、しかも「論理」以上に重要である、ここが著者のオリジナリティです。また、いかに適切な「出発点」を選択できるか、が勝負と言います。「情緒」は、感性、センス、直観とも言い換えることが出来ると思います。それはともかく、最も重要なことは論理では説明できない、と言い切った点がすばらしい[猫]
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