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試論 [就労支援]

いわゆるニート、つまり働きたいのに働けない、また働く意欲がもてない若者がいるのはなぜか? 

私はそれに対して、“父性の不在”という仮説を立ててみた。

以下順に、①子性②母性③父性④家について説明し、それを論証してみたい。

その前提として、<父性=父親>ではない。<母性=母親>ではない。子性=子どもの心的傾向。これらを確認しておく。

①子性
子どもには、社会的参照という特性がある。これは本能と経験(実体験)の中間に位置する“観察学習”である。ヒトは他者を観察することによって情報を入手する。子どもは、その能力が異常に高い。
ヒトの子どもがみずからの判断の基準を、同種の仲間という社会的存在を参照することで求めようとする現象は、一般的に社会的参照と呼ばれている。(正高信男著『父親力』P17)
それと、恐怖感を獲得する能力が高い。小学校の一時期、私は死を異常に恐れた時期があった。身内の死があったかもしれない。しかし、誰しもそういうことはあるのではないか。それは自己を守るために、もって生まれた本能的(遺伝的)なものではないか。

また、死以外にも、自己の存在を脅かすものには恐怖心を抱く。例えば、蛇とか、毛虫とか…(笑)。もともと子どもは恐怖を獲得すると強く記憶するようだ。事実、幼少期は楽しいことは忘れていても、怖いことは意外と憶えている。
それはヒトの子が幼少期を安全に乗りきるために、生物として、いまなお保有する遺伝的資質の反映であることがわかるだろう。(正高信男著『父親力』P26)
社会的参照と恐怖。このことから、子どもは無意識的に一番身近な存在である親の気持ちの動きから恐怖を察知している(せざるを得ない)。つまり、子どもは親から恐怖を学びとる。

たとえば、親にとって“カイシャ”が恐怖の対象だったらそう学習するし、“シャカイ”を変革すべきものだと親が思っていればそういう価値観をもつ。親が“ジンセイ”を否定的に捉えて毎日生きていたら、子どもは肯定的な人生を学ぶ機会がない。すなわち、親は社会の生きた媒体である
子どもにとって親は、社会を知るための貴重な情報源。(安藤哲也著『パパの極意』P40)
また、子どもは「私を本当に守ってくれるのか?」を親に問いかけている。しかも全身で…。それゆえに、子どもに対する親の接し方、親が子に対して向かい合う姿勢の影響力はどのヒトよりも大きい。
人間とは矛盾したもので関係の希薄な人間より、本来愛情を注いでくれる人間が自分を庇ってくれなかったほうがより深く傷つくものだ。(鈴木光司著『父性の誕生』P43)

②母性
母性は子にとっての安全基地のような働きをする…。(正高信男著『父親力』Pⅰ)
その一方で、母性は子性を囲い込む傾向がある。つまり、父性に任せると不安で仕方ない。つまり、子性の回りに母性の堅い門が存在する。その理由を、カナダの父親支援プロジェクトの「父親を子育てに参加させるときに直面する難問」から引用する。
父親が家事・育児をすることに対して、(略)たとえば、・父親の「子どもを世話する人」としての能力への疑問 ・自分の領域の支配権をなくすという不安感 ・子育ての基準を下げたくない(妥協したくない)という気持ち(安藤哲也著『パパの極意』P140)
母性は子どもを守ることである。そして、母子関係は育児の実証的研究が盛んに扱われている。しかし、母子関係以降の“育児”の研究は驚くほど少なく何もわかっていないらしい。前述の正高信男著『父親力』Pⅰの続きはこうである
いつまでもそこにとどまっているばかりでは、物事が新たな展開をみないのは明らかである。
だから、子どもが母性とのコミュニケーションに困惑したときがひとつの転機なのかもしれない。
「もう、おかあさんは私(ぼく)のことを好きでなくなったのだろうか」とでも表現できるような気分に陥ったときこそ、父親の出番である。(正高信男著『父親力』P128)
「おかあさんに好かれていない」=(は、)「すべてをなくすこと」ではない。「おかあさんが大切と感じるもの」<(より、)「周囲にはもっと多様な価値がある。それを知る。そして「親はああ考えているが、私は別にこう思う」ことでできてはじめて、社会に生きるひとりの個人が生まれる。子性から個性への生成変化である。

③父性
つまりは…
親の価値観を受け継ぎ、期待に応えつつも、本人ならではの生き方というものを、いつかは模索しなくてはならない。(正高信男著『父親力』P128)
そのために生きた媒体となることが親の役目であり、そのなかの父性とは…
その第一の条件に危険に立ち向かう勇気を持つことを挙げたい。(鈴木光司著『父性の誕生』P124)
父性を介して、ヒトは社会的な生き物へと移行していく。父性は人間も含めた自然と立ち向かう力や野生との交流、闇の世界を提供する。
社会化をめざし、自然のなかへのり出していくためには、親がまさにそこへ出かけていく姿を子にさらさねばならない。あるいは、直接に見せるのがむずかしいなら、次善の策としての語ってきかせることが以前にも増して重要性を帯びてくるのだ。(正高信男著『父親力』P114)
少し山っ気があるくらいが目安かな…(経験上)。つまりスリルへの志向とでもいうべき心性である。
不安におびえているばかりでは、永遠にそこへ到達することはない。意を決して出かけなくてはならないのだが、さほど強い決断をしなくとも、われわれには生まれながらに、こわごわながらも未知の体験に挑んでは、それに喜びをおぼえる感受性が備わっている。(正高信男著『父親力』P148)
めくるめくような体験は、恐怖と喜びの両義性のなかにある。恐怖感は、自分の安全が保障されていることがわかると、その恐怖感が快感に転じるものである。
(子どもが周囲の大人に)「ほら危ない、でも大丈夫」と跳びはねてみせる。それはまさにいままで入っていけなかった領域を開拓した喜びの感覚-まさに遊びがもたらす快感の原初の姿をみるのである。(正高信男著『父親力』P144)

④家
核家族とは家庭の磁場が非常に強くなっている場所だと述べた。うまくいっている時にはこの磁場は絆という言葉で表されるが、いったんマイナスの方向に向き始めると、この磁場は拘束力となって、家族を締めつけるようになっていく。(鈴木光司著『父性の誕生』P42)
家=磁場。すなわち、家とは互いを引きつける場所。

そもそも核家族は、家父長制度=家を守るという拘束から自由になるための人員構成ではなかったのか。事実、当初は誰にも(祖父母などに)気兼ねなく暮らせる夢のマイホームだったはずだ。

しかし、昨今、その核家族は父親サラリーマンと母親社会参画で共働き家族となった。また、男性の育児参加が増えている。しかし、これは今のところ“当惑する妻を助ける”ために過ぎない。いわゆる“惜しいパパ”(「どこかにある父親像を真似するのではなく、自分らしく、無理しなくていいんだ」という確信をもったパパではないパパのことをいう=安藤哲也著『パパの極意』P26)である。

確かに、保育園の送り迎えや小学校の学校行事でみる父親の姿はここ数年でかなり急増している。にもかかわらず、そこには父性はない。家のなかでは構成員による役割分担の混乱がみられる。
家族に話を戻せば、さまざまな家族の形態を辿り、現在の形に辿りついた。その形が、正しいか正しくないかは、それが未来に向けてどのような形をとっていくかによる。(略)核家族、父子家族、母子家族、どんな形態であれ、そこに生きる人間が多様性を維持するための方法を模索する時期に来ているのかも知れない。いわんや父性もまた、である。(鈴木光司著『父性の誕生』P201)

⑤結論
働きたいのに働けない、また働く意欲がもてない若者は、母性と父性がバランス良く機能する家で育てられなかった存在ではないか。たとえば、父性の影響力が希薄になり、母性の占める比重が一方的に増大している家。または、逆に幼い時期から父性ばかりが強くて母性が希薄である家。要するに、働けない若者は、父性または母性を学ぶ機会が失われた存在である。

特に、“父性の不在”は進学はできても就職では躓く要因となる。また、“父性の不在”は漠然とした危機感や曖昧な不安の過剰を抑制できない。さらに、自己を守ろうとする意識や命の大切さを希薄にさせる。

昨今、就職戦線は長期化しており、さながら消耗戦(不安との闘い)の様相を呈し悲惨なものとなっている。だからというわけではないが、余計に父性の《語り》が効いてくる。すなわち、父性から学びとった、社会に出るという恐怖と喜びの両義性が生きてくる。そして、自分自身を鼓舞する力が蘇る。

それは、一度、過剰に恐怖を味わった若者にとっても同じだ。
高等哺乳動物はいったんヘビを恐れ始めるや効果は終生続く。(正高信男著『父親力』P10)
つまり、恐れるという態度は変わることがない。これが働きたいのに働けない、また働く意欲がもてない若者の生物学的心性である。恐怖は緊張を生み、足が竦み、固定させてしまう。これは認めざるを得ない。仕方がない。諦めよう。

したがって、子どもは適切な時期に、父性から、柔軟に外と接近する力を自発的に学びとる。そして、社会性を獲得する。

それは、すでに恐怖に囚われている若者とて同じことである。つまり、そこからでも社会性の獲得は不可能ではない。ただ、それにはそうでないひとには理解できない恐怖との闘いが含まれている。
闘いへの再チャレンジは、負けたときの恐怖を克服する過程でもあったのだ。(鈴木光司著『父性の誕生』P205)

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名古屋の虎

理想な父親像、理想的な母親像を考えてみた事ってある?

私にとって理想の父親像は漫画家の蛭子さんです。良い意味でいい加減、ちょっとずるがしこくて、何となくだらしない。でも、根っこのところではいい人。人間的な父親って感じです。

では、理想的でない父親は? それは松岡修造。悪いやつじゃないんだけど、正論一本槍。肩が凝る。子どもとしてはつらい。サイボーグみたいな父親って感じかな。あんな父親と一つ屋根の下で暮らすのはかんべんしてほしい。

理想の母親像は八千草薫(古い?)。「俺たちの旅」でオメダ(田中健)の母親役をやってた。すべてを許してくれそう。理想の対極にある母親像はビジネス書を書くような女性評論家かなあ。

本文とは関係ないが、こんなことを思いました。

by 名古屋の虎 (2009-03-21 11:00) 

myjob


なるほどねぇ~。

理想的な父親像、母親像かぁ~、真面目に考えたことないなぁ~。

ただ、自分が親になってからは、少し自然と考えてるかも。

なんてたって、子どもは親をしっかり観察しているからね!

で、私の“父親モデル”は誰か?(じゃぁ~ん)

難しい~。だって、職場と家では別人のようなひと多いから。

私の父もそう。仕事人間。どうも、職場では慕われていたらしい。
でも、家では酒飲んでるか、寝てるか、時代劇みてるか(かな)。

でも、キャッチボールしてくれたし、銭湯では風呂の入り方や体の洗い方を細かく教えてくれた…。

今のところは、『ちびまる子ちゃん』のお父さんかな…(脱力系??)。

視点が、子どもからではなく、親からですが、そんなことを思いました。
by myjob (2009-03-22 10:50) 

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