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対話 [読書した履歴]

引きこもる若者たち (朝日文庫)

引きこもり (朝日文庫)
こんな本を買いました。
『引きこもる若者たち』
(塩倉裕著 2002年7月 朝日新聞社)

『引きこもり』
(塩倉裕著 2003年10月 朝日新聞社)

この2冊を読んで、はじめて「引きこもり」のことがわかったような気がした。著者は朝日新聞社の記者である。記述のほとんどが取材によるインタビューである。その取材と記述からは、偏りのなさを感じる。そして、その偏りのなさが、描き出される対象像(=引きこもり)の正確さを保証しているように感じられる。

『引きこもる若者たち』の続編にあたる『引きこもり』の第二部「引きこもりを考える」は、これまでの[取材-記述]を[考察]している。また、1990年くらいからの「引きこもり」支援の流れも掴むことができる。

話は少しずれるが、ここしばらく、“いじめ”とは何か、ということを考えている。“いじめ”は、ある特定の言動をさす言葉のようだが、“いじめ”が深刻化・問題化するのは当事者がそれを語る場・相手に閉ざされたことによるものではないか、ということをやや確信めいて感じている。つまり、ある特定の言動のあと、第三者にそれを話せて精神的な「うさ」を晴らせれば、重症化することはないのではないだろうか、という仮説である。

話は戻るが、「引きこもり」を就労と合わせて考えてみる。すると、不就労から引きこもりに至るまでには、《不就労-罪悪感-孤立感-不安感-恐怖感-引きこもり》という悪循環がある。つまり、最終的に「何かをしたいと思っても身動きできないくらいに固く僕を縛りつけてきたものは、何よりこの恐怖感」(『引きこもり』P223より)をもつ。

この恐怖感は、ふつう容易に想像ができないかもしれない。しかし、この恐怖感を和らげるものは想像できなくもない。たとえば、それは村瀬学氏のいう「あなた」もそのひとつだろう。また、この悪循環にブレーキをかけたり、方向修正できるのが、先に“いじめ”のところで考察した、第三者との対話、だろう。

「引きこもり」は誰にでも起こりうる現象である、といわれている。しかし、誰にでも起こらないのは、第三者という「あなた」と対話できる、からではないのだろうか。
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