経費 [内線1010]
こんな本を買いました。
『「即戦力」に頼る会社は必ずダメになる』
(松本順市著 2009年9月 幻冬舎)
TOTO氏の「読んで、意見を聞かせて」に応えようと、買って読んでみた。
著者の主張は、簡潔にいえば、《成果主義の弊害を排し、人を育てれば、業績は上がる》である。もう少しいえば、《成果主義と生活保障主義(たとえば、年功序列・終身雇用)をうまく組み合わせて、人を育てられれば、必ず儲かる》である。逆にいうと、人を育てるつもりがなく、成果のみ追い求める会社はダメよ、ということだ。
では、なぜ、ダメなのか。著者は次のような悪循環を指摘する。まず、成果主義になると、人は自分の給料のみが最大の関心事となる。自分の給料のみに関心が集まると、自分が最優先になる。また、他の人に教えるということがなくなる。教えることがないと、教えられることもない。そうなると、一人一人が孤立する。孤立すると、ギクシャクする。ギクシャクすると、全体の業績が下がる。全体の業績が下がると、給料が下がる。給料が下がると、意欲が下がる。意欲が下がると離職する。離職があると、募集する。募集は、即戦力に頼る。即戦力を採用し、成果主義が強化される。ますます、自分の給料が最大の関心事となる。となり、以下、最初に戻る。
そんな会社はダメでしょう、と著者はいう。確かに、成果主義がどんどん強化されると、思考が投資家の論理のようになっていきそうだ。さらに、人を「人」としてみるのではなく、「人でない」もの(=お金)としてみて、扱うようになっていくかもしれない。
それでは、人を「人」として向き合わせるようにするにはどうしたらいいのか。著者は、それには「みんなの成長」だと、考える。つまり、[みんなの成長=業績の向上]という論理をとる。
しかし、ホントにそうなのか。わたしは本著を読みながら、次々と出てくる「成長」という言葉に違和感を感じた。だから、いわゆる「批判読み」である。以下のような疑問が次々とでてきてしまう。
①人の成長とは何か。何をもって成長とするのか。すべての人が成長を望むのか。
②人の成長を評価するとき、なぜ一人単位(個人)なのか。
③人の評価は、絶対評価か相対評価か。または、両方か。
④人の評価は、業績向上とどう繋がるのか。
⑤人の成長・評価は、お客さんの満足とどんな関係性があるのか。
と、こんな具合に、だ。
特に「成長」と「評価」という言葉が疑問である。つまり、「成長」も「評価」も結果だ。結果を問うのが成果主義である。だから、結局、「成長」も「評価」もその対象は違うが同じ成果主義ではないのか。
実は、1995年~2003年頃までの約8年間ほど、わたしは前職でまさに成果主義の現場にいた。前半は、その賃金体系システムの構築。後半は、そのシステム内で働いた。
前半のシステム構築の時期というのは、バブルが崩壊し、経費削減を推し進めていた時期だ。売上げが激減する中、なんとか社内をコンパクトにして採算をとろうとした。成果主義は、その流れで検討されていた。それは、当時まだ聖域であった人件費に手をつけることだった。そして、会社に貢献した人には厚く、そうではない人にはそれ相応に、ということになった。ただ、それが業績向上につながったかどうかは甚だ疑問である。ただし、経費削減にはなった。
後半は、一営業マンとして働いた。自分の成長が会社の成長と信じていた。しかし、年とともに、孤立していくのがわかった。成果主義のシステムが自分自身の中に身についてしまったのだろう。また、当時、勢いがあった自己決定論(自己責任・自助努力)や勝ち組・負け組が叫ばれることが成果主義の追い風になっていた。
しかし、今考えると、なぜ[成果主義=業績向上]に疑問を持たなかったのか。[一人の評価=業績向上]というとってつけたようなお題目になぜ疑問を挟まなかったのか不思議だ。もっとも、そこで疑問を挟んでも成果主義を止めることなどできなかったのだが…。ただ、[成果主義]+[一人の評価]の論理で犯人探しはできた。その結果、経費が減った。しかし、[業績向上]の論理にはなり得なかった。だから、[業績向上]のために著者のような[みんなの成長]の論理が登場するのではないか。
また、著者は人事コンサルタントである。だから、[みんなの成長]は人事コンサルタントの職分と直結している。穿ったみかただが、いい宣伝とも読める。
わたしは、今は、就労支援の立場で、この成果主義や即戦力を外部からみている。つまり、成果主義や即戦力の論理が職業世界の入口(=就職活動・再就職活動)に及ぼす影響の度合いを肌で感じている。
いったい、成果主義とは何なんだろう。本著は、それに十分に応えていない、と思う。
もしかしたら、成果主義は「上司の思いつき」かもしれない。そう思えてきた。
わたしは本著のなかの「成長」を「感謝」という言葉にかえながら読んでいた。
そしたら、通りがよかった、から。
『「即戦力」に頼る会社は必ずダメになる』
(松本順市著 2009年9月 幻冬舎)
TOTO氏の「読んで、意見を聞かせて」に応えようと、買って読んでみた。
著者の主張は、簡潔にいえば、《成果主義の弊害を排し、人を育てれば、業績は上がる》である。もう少しいえば、《成果主義と生活保障主義(たとえば、年功序列・終身雇用)をうまく組み合わせて、人を育てられれば、必ず儲かる》である。逆にいうと、人を育てるつもりがなく、成果のみ追い求める会社はダメよ、ということだ。
では、なぜ、ダメなのか。著者は次のような悪循環を指摘する。まず、成果主義になると、人は自分の給料のみが最大の関心事となる。自分の給料のみに関心が集まると、自分が最優先になる。また、他の人に教えるということがなくなる。教えることがないと、教えられることもない。そうなると、一人一人が孤立する。孤立すると、ギクシャクする。ギクシャクすると、全体の業績が下がる。全体の業績が下がると、給料が下がる。給料が下がると、意欲が下がる。意欲が下がると離職する。離職があると、募集する。募集は、即戦力に頼る。即戦力を採用し、成果主義が強化される。ますます、自分の給料が最大の関心事となる。となり、以下、最初に戻る。
そんな会社はダメでしょう、と著者はいう。確かに、成果主義がどんどん強化されると、思考が投資家の論理のようになっていきそうだ。さらに、人を「人」としてみるのではなく、「人でない」もの(=お金)としてみて、扱うようになっていくかもしれない。
それでは、人を「人」として向き合わせるようにするにはどうしたらいいのか。著者は、それには「みんなの成長」だと、考える。つまり、[みんなの成長=業績の向上]という論理をとる。
しかし、ホントにそうなのか。わたしは本著を読みながら、次々と出てくる「成長」という言葉に違和感を感じた。だから、いわゆる「批判読み」である。以下のような疑問が次々とでてきてしまう。
①人の成長とは何か。何をもって成長とするのか。すべての人が成長を望むのか。
②人の成長を評価するとき、なぜ一人単位(個人)なのか。
③人の評価は、絶対評価か相対評価か。または、両方か。
④人の評価は、業績向上とどう繋がるのか。
⑤人の成長・評価は、お客さんの満足とどんな関係性があるのか。
と、こんな具合に、だ。
特に「成長」と「評価」という言葉が疑問である。つまり、「成長」も「評価」も結果だ。結果を問うのが成果主義である。だから、結局、「成長」も「評価」もその対象は違うが同じ成果主義ではないのか。
実は、1995年~2003年頃までの約8年間ほど、わたしは前職でまさに成果主義の現場にいた。前半は、その賃金体系システムの構築。後半は、そのシステム内で働いた。
前半のシステム構築の時期というのは、バブルが崩壊し、経費削減を推し進めていた時期だ。売上げが激減する中、なんとか社内をコンパクトにして採算をとろうとした。成果主義は、その流れで検討されていた。それは、当時まだ聖域であった人件費に手をつけることだった。そして、会社に貢献した人には厚く、そうではない人にはそれ相応に、ということになった。ただ、それが業績向上につながったかどうかは甚だ疑問である。ただし、経費削減にはなった。
後半は、一営業マンとして働いた。自分の成長が会社の成長と信じていた。しかし、年とともに、孤立していくのがわかった。成果主義のシステムが自分自身の中に身についてしまったのだろう。また、当時、勢いがあった自己決定論(自己責任・自助努力)や勝ち組・負け組が叫ばれることが成果主義の追い風になっていた。
しかし、今考えると、なぜ[成果主義=業績向上]に疑問を持たなかったのか。[一人の評価=業績向上]というとってつけたようなお題目になぜ疑問を挟まなかったのか不思議だ。もっとも、そこで疑問を挟んでも成果主義を止めることなどできなかったのだが…。ただ、[成果主義]+[一人の評価]の論理で犯人探しはできた。その結果、経費が減った。しかし、[業績向上]の論理にはなり得なかった。だから、[業績向上]のために著者のような[みんなの成長]の論理が登場するのではないか。
また、著者は人事コンサルタントである。だから、[みんなの成長]は人事コンサルタントの職分と直結している。穿ったみかただが、いい宣伝とも読める。
わたしは、今は、就労支援の立場で、この成果主義や即戦力を外部からみている。つまり、成果主義や即戦力の論理が職業世界の入口(=就職活動・再就職活動)に及ぼす影響の度合いを肌で感じている。
いったい、成果主義とは何なんだろう。本著は、それに十分に応えていない、と思う。
もしかしたら、成果主義は「上司の思いつき」かもしれない。そう思えてきた。
わたしは本著のなかの「成長」を「感謝」という言葉にかえながら読んでいた。
そしたら、通りがよかった、から。
読んでくれたんだね。ありがとう。
「成長」と「評価」という言葉に疑問を覚えているようだね。それと成果主義という言葉の定義についても。
基本的に評価というのは過去について行うものである。成果主義というのは途中経過をすっとばして最終的な数字(たとえば売上)だけで評価する傾向にある。その対極にあるのが、最終的な数字だけでなく、途中のプロセス(努力したことや新しいことに挑戦した)や他者との関わり(人の教えたとか面倒を見たとか)、こんなのが含まれるんじゃないだろうか。
成長という言葉ーー確かにいろんな使われ方がしている。JCDAの研修に行ったときにある講師が「私は成長という言葉はあまり好きではないんです」と言っていた。元長野県知事の田中康夫氏は「日本は成長から成熟へと舵を切るべき」だと言っている。
もう一点。
成長や努力を疑問視するコメントはいくつかある。が、それは「しかし」論で語られるべきではなくて、「ただし」論(←野矢的な説明の仕方)で語られるべきではないだろうかねえ。
どういうことかというと--・
「しかし」論は努力そのものを否定する、一方の「ただし」論は努力そのものは肯定するが、一定の留保条件とつける必要上「ただし、・・・・」と続けたりする。
明日から入院ですね。ゆっくり休んで来年の戦略を考えましょう。
by 名古屋の虎 (2009-11-23 09:20)
こんにちは。コメントありがとうございます。
「成長」ということばについてですが、確かに「ただし」論もわかります。
でも、「しかし」論の立場もあると思います。
ここ2,3年、わたしは「しかし」論で考えています。
実は、“反・成長主義”と宣言しちゃってもいいのではないか、
という結論まで、近づきつつあります。
たとえば、ひとつの意見としていえば、「成長」ということばは、もともと生物学のことばだとします(ほんとはどうか知らないので…)。だとすると、その対象は、昆虫とか、カエルとか、…とか、です。とすると、そこでいわれていることは、極端にいえば、殻から脱皮するようないわゆる「変態」のことをいっています。
ところが、「成長」ということばは、人にもあたりまえに使われます。しかし、もともとは人以外の生物が対象です。人とそれ以外の生物は違います。だから、ムリが生じます。つまり、人は虫のように、そんな劇的な変化はないし、人は、特に成人したあとは「変態」することなどありません。
では、なぜ人は人に「成長」ということばが使うのでしょうか。
結論からいうと、「成長」ということばは、人が人をコントロールするときに使うことばだと思います。それはそれでいいです。しかし、それをそのまま受けとり、自分自身の「成長」や「自己実現」とか、「働くことは人生のパフォーマンスだ」とか(笑)、といったりします。それが違う。それはどういうことかというと、ことばが反転し(生物→人)、もう一回反転して(他者→自己)、一回転してしまっている、、、のだとわたしは考えます。
※退院しました。ゆっくり、静養することができました。
by myjob (2009-12-04 09:10)