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つづく [読書した履歴]

中学生からの哲学「超」入門―自分の意志を持つということ (ちくまプリマー新書)こんな本を買いました。
『中学生からの哲学「超」入門』
(竹田青嗣著 2009年7月 筑摩書房)

一人称の哲学が現象学、三人称の哲学が構造主義だとすると、二人称の哲学は「他者の思想」といえないか。しかし、本書は、この「他者の思想」を批判している。

では、「他者の思想」とは何か。それは、ブーバー、レヴィナスのそれである。そして、わたしが今、注目している村瀬学氏のそれでもある。

では、「他者」とは何か。「他者」とは、無限である。だから、主体と他者の間には、知りうることのできない大きな溝がある。これは、現象学によって明らかにされ、フッサールの最後の教え子レヴィナスの倫理学構築になった(と思う)。

この倫理学を著者は、非哲学的と批判する。人間をそこまでつきつめておきながら、倫理かよ、そりぁないよ、ということだろう。倫理や道徳をもってくるのは、ロマン主義だ、という。つまり、非現実的である、という。

これに対して、村瀬氏は、ロマン主義のどこがわるいのさ、という立場である(ように見える)。極端な例、たとえば全体主義など、マイナスの側面があることは認める。しかしながら、人間のロマン(想像力)がもつプラスの側面を見ないのはどうか、と指摘する。つまり、ロマン主義、だ・か・ら、ちょっとなあ~、というのは些か浅薄な捉え方であると…。

と、まあ、このように論争を追っていくと、良い面もあれば悪い面もあり、まとまりがつかなくなってしまいそうになる。だったら、いっそのこと、どれがどうというのではなくて、時と場合によって、使い分ければいいじゃん、という感じもしてくる。

ちなみに、わたしが大学生のときに読んだ内田義彦氏の本には、哲学とは顕微鏡のようなものだ、と書いてあった。つまり、ひとつの概念装置なんだよ、と。だから、

デカルトの理性、ヘーゲルの弁証法、フロイトの無意識、マルクスの唯物論、ハイデッカーの現存在、フッサールの事象そのものへ、サルトルの実存、レヴィ・ストロースの構造分析、ドゥルーズ=ガタリのスキゾ分析、そして、村瀬氏のカップリング…。いろいろある概念装置を分析対象ごとに使い分ければいいのではないかと。しかし、こういうのを懐疑論というのであろうか。。。思索はつづく…。
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