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おもう [読書した履歴]

心と他者こんな本を買いました。

『心と他者』(野矢茂樹著 1995年1月 頸草書房)

『『論理哲学論考』を読む』を2回読み終えた。それで、同じ野矢氏の『心と他者』が気になった。わたしは、以前、この本を東大の生協の本屋さんでパラパラと立ち読みした。それで二つの要因が重なった。そして、ついに購入した。

しかし、『『論理哲学論考』を読む』の3回目を読み終えてから読もうと思っている。つまり、読んでみたいという欲求を抑えている。それには、二つほど理由があるが、それは今は書かない。

話は変わるが、わたしは最近、“思う”って書くことに抵抗がある。たとえば、いまこうしてブログを書いている。ついさっきも「読み終えてから読もうと思っている」と書いたばかりである。しかし、そのときも、“思う”と書けばしっくりくるのか、考えると書けばいいのか必ず迷うのである。しかも、“思う”より考えるを使うことをむしろ選んでいる。

たとえば、「私は歩く」と「私はあの子が歩くと思う」は違うのか。違うとしたら、何がどう違うのか。

実は、“思う”は命題的態度の動詞と呼ばれる。それが、『論考』のP202に書いてある。以下引用…
命題的態度は、「思う」「信じる」「望む」といった「心的」と呼ばれうる態度に特徴的なものと考えられ、それゆえ、言語論のみならず心の哲学においてもきわめて重要な話題領域を形成するのである。
「私は歩く」と「私はあの子が歩くと思う」は違う。何が違うか。前者は主体が存在する。後者は主体が存在しない。そこが違う。つまり、「歩く」の「私」は、動作する主体としてあるが、「~と思う」の「私」は<~と思う>と思考するが主体としてあるわけではない。もし主体があるとしたら、「あの子が歩く」と声に出して、あるいは一人ひそかに発話するなりして動作すれば主体としてある。つまり、動作しない限り、主体として存在しない、というわけである。

すごい、とこの辺を読んで思った。いや、つぶやいた(声に出したので動作主体としてある)。

と、このような考察がなされ、『論考』のあの有名なフレーズ「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」へと向かう。

ちなみに、読んだときはかなり理解したつもりだった。しかし、書こうとするとうまく書けない感じがする。たぶん、まだうまく理解できていないのだろう。だとしたら、「語りえぬもの」である。いいかえれば、思考の限界の外のことである。ウィットゲンシュタインのよれば、そういうことは「沈黙せねばならない」。だから、ウィットゲンシュタイン的には書いてはいけなかったのかもしれない(笑)。
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