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演劇 [好きなもの]

『「幸福論」×「変身」』という芝居を観てきた。

面白かった。千円の価値はあった。本格的な芝居だった。上手。役者さんってそれぞれ味があるわ。ライブは違うね。映画よりいい…。照明や舞台装置もセンスが感じられた。途中、涙が出そうだった。客はほとんど身内だけ?(=マイナー)かいな。

脚本・演出の寺山晋氏のことば(以下、パンフレットより抜粋)。今回上演するものは、カフカの「変身」ではありません。寺山修司の作品がやりたくて題材を選んでいるときに、「幸福論」に出会いました。いくつものテーマに基づいて寺山が幸福論を語っていくのですが、その中にカフカの「変身」が紹介されている1節がありました。興味を持ってカフカの小説を戯曲化していくと、そこには私のよく知る家族が描かれていました(以上、抜粋終わり)。

え~、実は私、「変身」読んでません。だから、芝居でそれを知るつもりでした。本当の「変身」は人間から甲虫類、こがね虫、うじ虫、ゴキブリへと変化するらしい。芝居は、どうも毛虫だけだったようだ。朝起きたら、主人公は毛虫になっていた。そこから始まる。主人公は兄。毛虫の兄は部屋で監禁状態。母に見せないよう世話する妹。心配する母。母はやや危ない。父は毛虫になった兄を攻撃する。

それまで平和だった家族。それが兄が毛虫になったことで一変する。なぜ、兄は毛虫になったのか。兄はパパ-ママ-ボクの家族の原理のもとで幸せに暮らしていた。しかし、兄の成長にともない父親中心の家族の原理がどんどん不満となる。それ自体のなかに閉じこもることに耐えられなくなる。

兄は、袋小路と出口のあいだを動き回っているしかなかった。そこで考え出したのが、変身という手段である。しかも、動物への変身。動物への変身することで、家族の原理の“非領域化”を見いだす。すばらしい発見! 兄は実に強度な逃走の線を描いた。

しかし、この企ては十分でなかった。芝居では、まず妹との関係が崩れる。それまで献身的に毛虫の兄の世話をしていた妹が、兄を嫌いはじめ「家から放りだせばいいのよ!」と叫ぶ。父は「何をしたいんだ」と怒鳴る。母はおどおどするだけ…。結局、“非領域化”の企ては失敗する。

では、なぜ失敗したのか? 兄が出口の最後まで行こうとしなかっためか。家族全員がこの企てで家族を再建するのに十分な力をもっていなかったからか。出口の先にあるはずの場がなかったのか。いったい、何がこのすばらしい企てを阻止したのか。

それは、毛虫だったからだ(笑)。

毛虫に限らず、動物はあまりにも可視化され、あまりにも意味不明で、あまりにも領域化されすぎているからではないか。

兄は、家族の誰からも気づかれることなく、家族の原理を“非領域化”しなければならなかった。ある変化の原理を満たし、その変化を十分なものにし、かならずうまくいくなにかはっきりしたものを保持していなければならなかった。それは何か? それは、家族の目を盗み、家族に嘘をつき、家族を裏切り、家族から逃げ出すことではない。それは、家族には見出せなかった出口を見つけることである。
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