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努力 [発達障害のこと]

私たち、発達障害と生きてます―出会い、そして再生へ努力には、二種類ある。

「否定的努力」と「肯定的努力」。

「否定的努力」はしてはいけない。「肯定的努力」はしてもよい。

『私たち、発達障害と生きてます―出会い、そして再生へ』からの引用
(2008年12月 ぶどう社)
「否定的努力」とは、周囲の人々に受け入れられようと思って、自らの本来のあり方を否定するような努力を積み重ねていくことを言う。(P110)
例として、“自分ひとりでいる時間”が大好きな発達障害(軽度の自閉症)の小学生M君をみてみる。

M君は、他人と一緒にいるよりひとりでいる方が好きである。M君の優先順位の第1位は“自分ひとりでいる時間”である。

しかし、定型発達の友だち、つまり普通のこどもにはそれが理解できない。こどもだけでなく周りの大人、親でさえもなかなか理解できない。友だちは「遊ぼう」と誘う。M君は誘われたり、一緒に遊ぶのが嫌ではない。しかも、それはそれで楽しいし、求めてもいる。

それゆえ、M君は友だちと遊ぶことが嫌そうでない。だから、友だちもM君が楽しいんだろうと思う。しかし、M君は内心、家でひとりっきりで遊びたい。実際、家に着くと一目散に自室に駆け込み、自分の好きなことに興じる。まるで、それで帳尻を合わせるかのように。

けれども、M君は《友だちと遊ぶ時間>“自分ひとりでいる時間”》となるある臨界点を超えるとバランスを崩す。次第に友だちにみせるカモフラージュがM君に負担となる。そういう時間が苦痛となる。その小さな苦痛の積み重ねは、M君のこころの疲れや傷を少しずつ増していく。

つまり、M君のなかでは、回りの目を気にする努力を積み重ねることで自己否定に陥るということが起こっている。さらに、M君が頑張って普通のふりをして認めらるようになればなるほど、M君は自分自身が否定されていると被害的に思い込む。それはやがて虚無感を生み、生きる意欲を削いでいく。

このような否定的努力は間違っている。だから、しない方がよい。むしろ、してはいけない。

また、M君は自分のこの常識外の一緒に遊びたくない理由をうまく伝えられない。同時に、友だちに嫌われたくもない。M君は自己矛盾を抱える。これは辛い。この辛さや困難さがまた自分はダメだという否定的体験となる。ここでもまた生きる意欲を削いでいく。

このように、M君の“自分ひとりでいる時間”に対する過剰なこだわりが、対人関係で不具合を生み、ボロボロになる。

努力や頑張りをすればするほど自己否定に陥る。何とも皮肉な結果を生む。

これを解消するには、M君だけでは無理である。周りの理解が不可欠である。この常識外の世界を、多元的な世界を理解する努力が必要である。身内であれば自助努力だ。しかし、第三者にとっては必要がない。またそんな余裕もない。必要ないとすればそれっきりである。なぜなら、関係をもたなければそれで済むから。

その一方で、M君はM君で肯定的努力をするべきである。すなわち、“自分ひとりでいる時間”に対する過剰なこだわりを薄くすること。それと、自分自身の損益分岐点(自分にとって損か得かの判断基準)を知り、誘いを断ることを覚え、無理せず折り合いをつける技術を身につけることである。

そうすることで、社会性を獲得していくことができる。これは肯定的努力であり、正しい努力である。
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