だぶる [読書した履歴]
わたしたちは、「一人の人間でありながら、一人の人間ではない。つまり、複数の人間である」。
わたしが今読んでいる『新しいキルケゴール―多者あるいは複数自己の理論を求めて』という書物の主旨を、一言でいうとしたら、こうなのではないか。
わたしは、ニートとよばれる状態にある若者の就労支援をしている。ところが、なかでも、わたしが、なかなか理解できないタイプが、いわゆる“引きこもり”とよばれるタイプである。
ちなみに、わたしの考えているタイプは次の四つだ。
①神経症(神経質)タイプ
②うつ病タイプ
③発達障害系タイプ
④引きこもりタイプ
①②③は本とかで勉強することで、ある程度理解することができる(そう言い切れるほどの自信はぜんぜんないんだけど…)。しかし、④は、もうこの仕事を5年もやってるけど、分かんない。
ところがである。
そう、この『新しいキルケゴール』を読むことで、④が理解できそうな気がするのである。
じゃ、それは、何か。それは、………………(う~、なんだか言うのがもったいない)。
それは、 《二重拘束(ダブルバインド)》である。 (じゃあ~ん)
そう、④のタイプは、これを抱え込んでしまっているのである(たぶん…)。
さて、では《二重拘束(ダブルバインド)》とは何か。
たとえば、こうである。理想と現実。理想が高すぎると、現実離れする、ということがある。逆に、現実を追うと、理想から離れてしまう、ということがある。つまり、現実を追っても、理想を追っても、そこには葛藤が生まれる、という状況がある。これが《二重拘束(ダブルバインド》である。しかし、これは苦悩する若者にだけにあること、というわけではない。すなわち、誰にでも起こりうることである。
こういう場合もある。理想はそのままだが、現実が低すぎる場合。これは、困難に出くわしたときや、厳しい現実を目の当たりにしたりして、それを受け容れられないようなときである。そんな時、われわれは、現実を直視できない。現実逃避してしまう。しかし、そうすればするほど葛藤が深まる。しかし、かといって現実と向き合うには辛すぎる。つまり、現実を追っても、理想を追っても、葛藤という状況である。
『新しいキルケゴール』を読んで思うことは、このような状況が、いわゆる“引きこもり”なのではないか、という仮説である。そして、《二重拘束(ダブルバインド)》から抜け出すためのキュー(手がかり)が、冒頭に書いた「一人の人間でありながら、一人の人間ではない。つまり、複数の人間である」という考え方ではないか、と。
なお、詳しく(というか、正しく、というべきか)は、この本『新しいキルケゴール』のP230~P248「《責めありや?》《責めなしや?》-ある苦悩の物語-」を読むべし!
ちなみに、《二重拘束(ダブルバインド)》を発見したベイトソン並びにエリクソンって凄いなあ、って感じます。ありがとうベイトソン、ありがとうエリクソン。(笑)
わたしが今読んでいる『新しいキルケゴール―多者あるいは複数自己の理論を求めて』という書物の主旨を、一言でいうとしたら、こうなのではないか。
わたしは、ニートとよばれる状態にある若者の就労支援をしている。ところが、なかでも、わたしが、なかなか理解できないタイプが、いわゆる“引きこもり”とよばれるタイプである。
ちなみに、わたしの考えているタイプは次の四つだ。
①神経症(神経質)タイプ
②うつ病タイプ
③発達障害系タイプ
④引きこもりタイプ
①②③は本とかで勉強することで、ある程度理解することができる(そう言い切れるほどの自信はぜんぜんないんだけど…)。しかし、④は、もうこの仕事を5年もやってるけど、分かんない。
ところがである。
そう、この『新しいキルケゴール』を読むことで、④が理解できそうな気がするのである。
じゃ、それは、何か。それは、………………(う~、なんだか言うのがもったいない)。
それは、 《二重拘束(ダブルバインド)》である。 (じゃあ~ん)
そう、④のタイプは、これを抱え込んでしまっているのである(たぶん…)。
さて、では《二重拘束(ダブルバインド)》とは何か。
たとえば、こうである。理想と現実。理想が高すぎると、現実離れする、ということがある。逆に、現実を追うと、理想から離れてしまう、ということがある。つまり、現実を追っても、理想を追っても、そこには葛藤が生まれる、という状況がある。これが《二重拘束(ダブルバインド》である。しかし、これは苦悩する若者にだけにあること、というわけではない。すなわち、誰にでも起こりうることである。
こういう場合もある。理想はそのままだが、現実が低すぎる場合。これは、困難に出くわしたときや、厳しい現実を目の当たりにしたりして、それを受け容れられないようなときである。そんな時、われわれは、現実を直視できない。現実逃避してしまう。しかし、そうすればするほど葛藤が深まる。しかし、かといって現実と向き合うには辛すぎる。つまり、現実を追っても、理想を追っても、葛藤という状況である。
『新しいキルケゴール』を読んで思うことは、このような状況が、いわゆる“引きこもり”なのではないか、という仮説である。そして、《二重拘束(ダブルバインド)》から抜け出すためのキュー(手がかり)が、冒頭に書いた「一人の人間でありながら、一人の人間ではない。つまり、複数の人間である」という考え方ではないか、と。
なお、詳しく(というか、正しく、というべきか)は、この本『新しいキルケゴール』のP230~P248「《責めありや?》《責めなしや?》-ある苦悩の物語-」を読むべし!
ちなみに、《二重拘束(ダブルバインド)》を発見したベイトソン並びにエリクソンって凄いなあ、って感じます。ありがとうベイトソン、ありがとうエリクソン。(笑)
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